
失礼な話ですが、人の顔を見続けるとその目線や表情の端々からいろんな感情を感じとって疲れてしまうところがあります。
そのせいもあって年々見たくないものは見ないようになってきました。
それが自分が健全でいるため必要だからそうなってきたのだと思います。
見たくないものを見ないというのは、見たいものだけ見るということ。
逃げてると言われたらそうかもしれません。
でも仕事や私に責任があると思ってることについては別ですよ。
それは神経を注いで関わります。
でもそれ以外のこと、特に人間関係は見たいものしか見ません。
そばにいてほしいのは大好きな人だけでいいし、よく知らない人の情報は欲しくないから噂話は聞きたくないし、誰かの悪口も一方的に聞かされると、言ってるその人のことが嫌いになります。
上手に流せる人もいるでしょうが、私は受け止めてしまうタイプ。
もらってもやり場のないものは私に溜まってしまうんです。
私から別の誰かに流れることはありません。
そんなことしても誰も何もいいことはなくて、むしろ信用を失うだけだと思うからです。
悪意を感じたり、はけ口にされてるのが分かると心のシャッターを下ろしてしまいます。
見下されてバカにされてるように感じるからです。
一度下ろしたシャッターは完全に開くことはなくて半開きかそれ以下、次に見たくないものを披露されそうになったらすぐ閉めれるよう警戒してます。
だから今私の周りにいる人って信用できる人しかいません。
見たい人しか見てないんです。
警戒したり疑ったりすることがないのですごくラクです。
人数はものすごく少ないです。
友人と呼べる人はほぼいません。
なんとなく仲良くしないといけないと思っていた人たちとの関係を守っていた時は、自分や家族が後回しになりがちで不満もすごく多かったんです。
でもその人たちと何のために仲良くしてないといけないか分からなくなってから距離をおいて、自分と家族をいちばん大切にするようになってからは不満も不安もなくなったんですよ。
それまで見なくていいものに囚われてました。
私も噂話とかしていましたし。
コミュニティの仲間でいるため、生き残るためだったと思います。
仲間はずれが怖くて、孤立したくなくて。
今思えばその時の自分が大嫌いです。
だけどそのことに気づくためには必要な経験でした。
見たいものしか見ないことは、他の誰かと比べることをせず、過去の自分との比較によって成熟度を感じることに役立ちます。
誰かと比べたところでその人の不安や不満は目に見えませんから、自分より幸せに見えるものです。
だけどそう見えるだけ。
問題や不安のない人なんていません。
幸せそうに見える人はそう見せることが上手なだけで、むしろ不満とのギャップが大きく苦しんでいると思います。
幸せに見せていないと心が保てないからそうしているのです。
その人もまた、見なくていいもの(人からの評判など)に囚われているのでしょう。
でも幸せかどうか決めるのは他人ではありません。
自分がどう思っているかです。
自分が見たいものに集中していれば、それだけで幸せなのではないでしょうか。
まずは気分が良くないもの、必要ないものは受け入れないことをおすすめします。
それではまた☺︎
コメント